僕は研究者になりたかった

投稿者:27歳男性(無職)

僕は研究者になりたかった。
そういうと、研究者になれない事情があるように聞こえる。

正確に言おう。
僕は研究者になるための努力をしていない。
だから研究者になれないが、なりたいという願望はあった。

世界を見渡せば職業を自由に選べない人間は腐るほどいる。
これはちっぽけな問題だ。実際、僕にとっても些細なことだ。

ではなぜこの様な話をしたのか。
題目としてインパクトがある気がしたからだ。

そう、飛ばし記事みたいなものだ。
でも掴みというのは大切だ。何事でも。

これが効果的だったかどうかは
読者であるあなただけが知っている。

本題に入ろうと思う。
内容はざっくり、職業や労働について。

働くとは何か

無職が語るのはさぞ滑稽だろう。
だが、できれば最後まで読んでほしい。

先に新卒の頃の僕の認識を語ろう。
当時は労働を「生活の為にやるしかない」と認識していた。

こう考えている人は少なくないと思う。
そしてそう考えていた僕は傷病が原因ではあるが仕事を辞めた。

そこから1年くらいは無である。
必要な時間ではあったが、実ったものは特にない。

回復した僕は働かなくてはならないと思った。
まだ労働の認識は変わっていない。

ただ、労働しなくても生きていけることを知った。
それは僕から当初は働く気力をさらに奪ったが、ブレイクスルーでもあった。

元気になってからは一人で過ごすのが苦痛だった。
コロナ禍の影響も強かったように思うが、うまく説明できないので流す。

とにかく、満ち足りないと感じた。
あれほど億劫だった外出や他人とのコミュニケーション、それに飢えた。

やがて気が付いた。
他人から感謝されたり認めてもらいたい。

一言で表現するなら承認欲求だ。
それが過去と比べるとずいぶんポジティブな方向性になった。

この欲求を満たすのに、実は労働が近道だった。
失って気が付くというのはこういうものか。

ただし、逆に労働なら何でもいいというわけでもなくなった。

労働やその成果物を一種の自己表現とするならば、
不得意な分野や誰でもできる労働は全くもって価値がない。

例えば、画家が楽器を演奏して輝くのは一般には難しいだろう。

僕が生きる道はやはりITにあるのだと再認識した。
それは結構時間をかけて自己分析をした結果なのだが過程は省く。

現状

そんなわけで僕は遠回りをしたが結局IT業界で職探しをしている。
求人は条件を絞っているので数は多くない。

でも焦る必要はない。

無職でも生きていけることを僕は知っている。